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<訃報>ダン池田さん72歳=バンドマスター
2月21日20時27分配信 毎日新聞

ダン池田 ダン池田さん72歳(だん・いけだ<本名・池田啓助=いけだ・けいすけ>バンドマスター)昨年12月25日、呼吸不全のため死去。葬儀は近親者で済ませた。喪主は妻節子(せつこ)さん。

 「ダン池田とニューブリードオーケストラ」のバンドマスターとして、69〜85年にフジテレビ系「夜のヒットスタジオ」で歌手の伴奏を務めた。NHK「紅白歌合戦」では13年間、指揮者を務めた。85年には告白本「芸能界本日モ反省ノ色ナシ」を出版した。




バンドマスターのダン池田さん死去
2月21日22時0分配信 時事通信


 ダン 池田さん(だん・いけだ、本名池田啓助=いけだ・けいすけ=バンドマスター)07年12月25日、呼吸不全のため東京都の病院で死去、72歳。韓国ソウル生まれ。葬儀・告別式近親者で済ませた。喪主は妻節子(せつこ)さん。
 「ダン池田とニューブリード」を結成し、「夜のヒットスタジオ」「NHK紅白歌合戦」などで演奏を担当。85年にバンドマスターを降り、芸能界の裏側をつづった著書が話題を集めた。 

最終更新:2月21日22時47分




ダン池田さん死去していた…“夜ヒット”や紅白で伴奏務める
2月22日8時3分配信 サンケイスポーツ

 フジテレビの人気音楽番組「夜のヒットスタジオ」の伴奏などを務めたダン池田さん(本名・池田啓介)が、昨年12月25日、呼吸不全のため都内の病院で死去していたことが21日、分かった。72歳。最盛期はレギュラー番組8本を抱えたが、60年に暴露本を出版。芸能界から追放され、寂しい晩年を送っていた。

 ダンさんは平成10年に脳梗塞(こうそく)を患い、自宅で療養生活を続けていたが、昨年11月13日に室内で転倒。頭を打って再入院し、帰らぬ人となった。葬儀は妻の節子さんが喪主を務め、本人の遺志で近親者のみの密葬で済ませた。

 ダンさんは昭和10年ソウル生まれ。敗戦で両親と共に帰国した。ダンは、中学時代にフォークダンス指導員を務め“ダン助”と呼ばれたことに由来する。44年にビッグバンド「ダン池田とニューブリード」を結成。“夜ヒット”などの人気番組の専属バンドになり、NHK紅白歌合戦の紅組伴奏を13回も担当した。

 しかし、60年11月に暴露本「芸能界本日モ反省ノ色ナシ」を出版。70万部を売ったが、芸能界の裏側を実名で書いたため、追放の形で一線から退かされた。

 その後は地方の歌謡大会の伴奏や審査員などで活動。表舞台で仕事ができなくなったこともあり、寂しい晩年を送っていた。だが、本人は周囲に「寂しかったこともあるが、当たり前のことを書いたまでだから」と漏らし、後悔はしていなかったという。

最終更新:2月22日8時44分




「夜ヒット」などで指揮ダン池田さん死去
2月22日9時42分配信 日刊スポーツ


 「ダン池田とニューブリード」のバンドマスターとして、数々の音楽番組で活躍したダン池田(本名池田啓助=いけだ・けいすけ)さんが昨年12月25日午後7時18分、急性呼吸不全のため都内の病院で亡くなっていたことが21日、分かった。72歳。旧朝鮮・京城府(現ソウル市)生まれ。葬儀・告別式は近親者のみで済ませた。喪主は妻節子(せつこ)さん(64)。
 節子さんによると、ダンさんは約10年前に脳梗塞(こうそく)を患い入院。退院後は自宅で療養生活を送っていたが、右半身に軽い障害が残り、その後も何度か発作に襲われたという。昨年12月13日に自宅で転倒し頭部を強打。頭蓋(ずがい)骨内部に出血もあり入院、そのまま帰らぬ人となった。節子さんは「芸能活動を離れて20年近くもたっており、静かに眠らせてあげたかった。それが故人の遺志でもあると思います」と話した。今月11日には四十九日法要を行い、ダンさんの実弟や学生時代の親友、音楽関係者らが集まって故人をしのんだ。
 ダンさんは「ダン池田とニューブリード」の指揮者として、フジテレビ系音楽番組「夜のヒットスタジオ」「オールスター家族対抗歌合戦」などで活躍。NHK紅白歌合戦でも指揮者を務めるなど、ひげをトレードマークにお茶の間の人気者だった。
 一方、「日本の芸能界がアメリカのショービジネスとあまりに乖離(かいり)することに義憤を感じ」85年に芸能界の告発本「芸能界 本日モ 反省ノ色ナシ」を出版した。芸能界の実態を実名告発してベストセラーになった。翌年には第2弾も出版。しかし、この告発本が芸能界の反感を呼び、ダンさんは芸能界の華やかな世界と決別、ディナーショーやバンドなどマイペースで音楽活動を続けていた。

最終更新:2月22日9時42分
作曲家の三沢郷さん死去 「デビルマン」ほか主題歌多数
2007年11月29日15時18分 asahi.com

 三沢 郷さん(みさわ・ごう=作曲家)が20日、米カリフォルニア州で死去、79歳。故人の遺志で葬儀は行わない。

 「デビルマン」「エースをねらえ!」などのアニメやドラマの主題歌を多数作曲。70年代半ばから米国に移住した。

デビルマン

ミクロイドS
元五輪水泳選手でタレント、木原光知子さん死去
10月18日16時23分配信 産経新聞
木原光知子 東京オリンピックの水泳元日本代表選手で、タレントとしても活躍した木原光知子(きはら・みちこ)さんが18日未明、くも膜下出血のため亡くなった。59歳だった。
 木原さんは岡山県出身。山陽女子高校在学時に競泳女子自由形などで東京五輪に出場。「ミミ」の愛称で人気者となり、引退後はモデルやタレントとして活躍していた。


建築家・黒川紀章さん死去
10月12日16時49分配信 産経新聞

黒川紀章 建築家の黒川紀章氏が12日午前8時42分、心不全のため死去した。事務所が明らかにした。73歳だった。葬儀日程は未定。黒川氏は今年、4月の東京都知事選と7月の参院選に出馬して落選していた。
 黒川氏は名古屋市生まれ。昭和32年に京都大学建築学科を卒業後、東京大学大学院博士課程修了。日本芸術院会員。都庁舎を設計した故・丹下健三氏に師事した。イタリアのデダロミノッセ国際対象(平成16年)、「ウォルポール・エクセレンス・メダル」(17年)など受賞多数。主な作品に、大阪府の国立民族学博物館、オランダのヴァン・ゴッホ美術館新館など。
 夫人は女優の若尾文子さん。
トップモデルとして活躍、山口小夜子さん死去
8月21日9時41分配信 毎日新聞

山口小夜子 パリコレクションなど世界で活躍する日本人ファッションモデルの先駆けとなった、山口小夜子(やまぐち・さよこ)さんが14日、急性肺炎で亡くなった。57歳。葬儀は近親者のみで行った。後日、お別れの会を開く予定。
 横浜市生まれ。杉野学園ドレスメーカー女学院卒業後、モデルに。72年パリコレデビュー。高田賢三さんや三宅一生さん、山本寛斎さんらのショーで活躍したほか、資生堂の広告でも注目を集めた。
 おかっぱ頭に切れ長の目の神秘的な美しさと表現力の豊かさが欧米でも評価され、77年には米「ニューズウィーク」誌が世界のトップモデル6人に選出。また、英国では山口さんそっくりの「小夜子マネキン」が作られ、話題になった。ダンスや演劇などの分野でも活躍し、衣装デザインも手がけた。84年、第2回毎日ファッション大賞特別賞を受賞。
<訃報>反戦運動の旗手、作家の小田実さん死去
7月30日4時25分配信 毎日新聞


小田実 元「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)代表で、ベトナム反戦運動など市民運動の先頭に立った行動派の作家、小田実(まこと)さんが30日午前2時5分、胃がんのため東京都内の病院で死去した。75歳。
 大阪市生まれ。東大卒業後にフルブライト留学生として渡米。南米や欧州、アジアなどを回った旅行記「何でも見てやろう」(1961年)はベストセラーとなった。
 65年には米軍の北ベトナム(当時)爆撃に反対する哲学者の鶴見俊輔さんらと反戦運動を開始。ベ平連を結成し、代表になった。大規模なデモやワシントン・ポストなど米紙へ意見広告を掲載して注目を集めた。ベ平連は米軍が撤退した後の74年に解散。その後も湾岸戦争の際には同様の意見広告を出すなど、一貫して反戦の立場を貫いた。
 95年1月の阪神大震災は西宮市の自宅で遭遇。恒久的な公的支援の法制度を作るために奔走し、98年の「被災者生活再建支援法」成立の原動力にもなった。

◇  ◇


 文学者としての小田さんは、虐げられる側、庶民の目線を大切にしながら、民族、国、性などをつぶさに見据え、その成果を小説などに結実させた。
 デビュー作は1951年に出版された小説「明後日の手記」。デビューの2年前、高校2年だった小田さんは兄事していた作家、中村真一郎さん(故人)を通じ、当時、名編集者として鳴らしていた文芸誌「文芸」の坂本一亀さん(同)に出会い、出版を勧められた。
 若者の好奇心に火をつけ、ベストセラーになった旅行記「何でも見てやろう」(61年刊)を書くように勧めたのも坂本さんだ。
 最初の長編小説「アメリカ」(62年刊)では、米国内での人種差別などに実直に目を向けていて、後にベトナム戦争を市民の目から徹底的に批判していく小田さんの文学的なスタンスが見て取れる。
 大阪のブルジョアの女生大学院生の恋愛を通じて日本の縮図を映し取った長編小説「現代史」(68年刊)、遺骨収集を素材に戦争の痕跡を描いた政治小説「ガ島」(73年刊)をはじめ、長編3部作といわれる「冷え物」「羽なければ」「円(まる)いひっぴい」(77年刊)がある。
 この10余年の間でも、終戦直後の大阪の闇市を舞台にした「大阪シンフォニー」(97年刊)、川端康成文学賞を受賞した短編「『アボジ』を踏む」(98年刊)、戦争末期の日本軍の玉砕をテーマにした「玉砕」(同)、阪神大震災をモチーフにした「深い音」(02年刊)など旺盛な創作意欲は衰えず、最期まで文芸誌「すばる」の連載を続けていた。
「北の宿から」など作詞家の阿久悠さんが死去
今年の3月、歌手の石川さゆり(右)の「デビュー35周年 感謝の宴」に出席した阿久悠さん 5000以上の曲を作詞した“20世紀最大の作詞家”阿久悠(本名・深田公之)さんが1日午前5時29分、尿管がんのため死去した。70歳。兵庫県出身。ピンク・レディーの「UFO」、「サウスポー」、都はるみの「北の宿から」などポップス、演歌、アニメなど幅広く活躍し、数え切れないほどのヒット曲を連発。昭和歌謡史そのものといってもいいほど存在だった。(2007年8月1日16時02分 スポーツ報知)
(写真=今年の3月、歌手の石川さゆり(右)の「デビュー35周年 感謝の宴」に出席した阿久悠さん)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070801-00000160-sph-ent



阿久悠さん死去 作詞家、「正論」メンバー 70歳

 「また逢う日まで」「勝手にしやがれ」など5000曲以上を作詞し、戦後の歌謡曲の黄金時代を牽引(けんいん)した作詞家、阿久悠(あく・ゆう=本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)氏が1日午前5時29分、尿管癌のため慈恵会医大病院で死去した。70歳。兵庫県出身。自宅は非公表。後日、送る会を行う予定。喪主は妻、深田雄子さん。

 昭和34年に明治大学文学部日本文学専攻卒業後、広告代理店の宣弘社に入社。広告マンと放送作家の二足のワラジを履くが、40年にフリーとなり、作詞を中心に小説、エッセーなどの執筆活動に入る。同年、ザ・スパイダースのデビュー曲「フリフリ」のB面「モンキー・ダンス」で作詞家デビューした。

 昭和40年代後半から50年代にかけてヒットチャートを独占する勢いで、日本レコード大賞は「また逢う日まで」(46年)、「北の宿から」(51年)、「勝手にしやがれ」(52年)、「UFO」(53年)、「雨の慕情」(55年)と5回受賞。

 また46年、日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生」に企画から参加し、審査員として森昌子、桜田淳子、山口百恵、岩崎宏美ら数多くのスターを生み出した。

 53年には小説「ゴリラの首の懸賞金」で作家デビュー。直木賞候補作「瀬戸内少年野球団」(54年)、「殺人狂時代 ユリエ」(57年、横溝正史賞受賞)、「家族元年」「詩小説」「ラヂオ」「もどのり春」「転がる石」「歌謡曲の時代〜歌もよう人もよう」ほか多数の著作がある。

 平成9年に菊地寛賞、11年には紫綬褒章を受章。産経新聞「正論」メンバー、産経新聞生活面にコラム「阿久悠 書く言う」を長期連載していた。

http://www.sankei.co.jp/culture/enterme/070801/ent070801001.htm